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慶文堂 ひま人日記

慶文堂 ひま人日記

*3 近代的改革の推進/日清戦争~私的考察

だいたい同じような年代・事件を引用しているのですが、一見してすぐに分かるのは韓国の教科書が長く、詳しく書かれてあるのに対し、日本のかの有名?な『新しい歴史教科書』の記述は簡単で短い、という事です。

それほどでもないだろう?と思われるかもしれませんが、実は韓国の教科書のこの部分は、A4サイズの用紙に13ページにわたって記述されているのです。あまりに長過ぎるので、とりあえず気になる部分だけを取り上げたのです。



まずは韓国の教科書の特徴。
具体的に西暦で記述された部分が少ない。従って客観的に何年ごろの話なのかがすぐに分かりません。
例えば、

(引用開始)
3 近代的改革の推進
甲午改革と乙未改革
 朝鮮は甲申政変(註;1884年12月に朝鮮で起こったクーデター)の失敗で近代的な改革を主体的に実施する機会を失っていたが、開港以来累積した様々な矛盾を解決するためには大々的な改革が必要だった。そうして改革を要求する東学農民運動(註;1894年、東学という新興宗教を中心に全羅(チョルラ)地域ではじまった外部勢力の排除を呼びかけた農民運動)が起こると国王は大々的な改革を約束した。

 そして甲申政変に加担しなかった穏健開化派も国政全般に及ぶ改革の必要性を切実に感じていたので、国王の命を受けて校正庁を設置し、自主的に改革を推進しようとした(2)。
(引用終わり)

このように書くと大体の流れが分かるのですが、西暦がないといったい何時のことやら・・・と思ってしまいます。これより以前の単元で習っているから必要ない、という事なのでしょうか。



さて、次の記述。


(引用開始)
 一方、東学農民運動(註;1894年)を契機に清日両国軍が朝鮮に入ってきたが、すでに政府と東学農民軍の間には全州和約が成立し外国軍隊の朝鮮駐屯に対する名分はなくなっていた。


 このような状況で、日本は朝鮮での内乱を予防するためには朝鮮の内政改革が必要であると主張した。しかし、その内面的な意図は、日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、すすんで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった。

 したがって、日本は朝鮮に対して内政改革を要請したが、朝鮮は日本軍が先に撤収することを要求した。

 日本側の内政改革強要と朝鮮側の自主的改革の主張が強く対立するなかで、日本は軍隊を動員して景福官を占領した。このような日本の脅威のなかで閔氏政権が崩壊し、大院君を摂政とする第1次金弘集内閣が成立した。そして改革を推進するための軍国機務処が設置された。


 軍国機務処は超政府的な会議機関として改革を主導した。これが第1次改革で、いわゆる甲午改革である(1894年)。当時、日本は利権侵奪に力を注ぎ、改革内容に対しては傍観的な姿勢をとっていたので、改革は事実上軍国機務処の主導のもとで推進された。

 ところが日本は清日戦争で優勢になると、朝鮮に対して積極的な千渉政策をとった。このとき、甲申政変(註;1884年12月)の主動者として亡命していた朴泳孝と徐光範が帰国して改革に参与した。
(引用終わり)



まあこれは韓国の教科書だから仕方ないのでしょうが・・・。

>一方、東学農民運動(註;1894年)を契機に清日両国軍が朝鮮に入ってきたが、すでに政府と東学農民軍の間には全州和約が成立し外国軍隊の朝鮮駐屯に対する名分はなくなっていた(韓国の教科書)。


この部分を素直に読むと、
『韓国が東学農民運動で混乱している時に乗じて、清と日本が朝鮮に侵入してきた。でもその時にはすでに和解が成立していたので、両国軍隊が駐屯する名分がなくなっていた』
ということになりますよね。本当にそうなんでしょうか?


日本の教科書では、こう記述されています。


(引用開始)
1894(明治27)年、朝鮮の南部に甲牛農民戦争とよばれる暴動がおこった。農民軍は、外国人と腐敗した約人を追放しようとし、一時は朝鮮半島の一部を制圧するほどであった。わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は、清に鎮圧の為に出兵を求めたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった。
 戦場は朝鮮のほか、満州(中国東北部)南部などに広がり、日本は陸戦でも海戦でも清を圧倒し、勝利した。日本の勝因とし(ここからはP165)ては、新兵器の装備に加え、軍隊の訓練、規律にまさっていたことがあげられるが、その背景には、日本人全体の意識が、国民として一つにまとまっていたことがある。
(引用終わり)


 明かに違っていますね。

 韓国の教科書ではあたかも日本と清が朝鮮国内の混乱に乗じて軍隊を派遣したように書かれていますが、日本の教科書では、

>わずかな兵力しかもたない朝鮮王朝は、清に鎮圧の為に出兵を求めたが、日本も清との申し合わせを口実に軍隊を派遣し、日清両軍が衝突して日清戦争が始まった(日本の教科書)。
※以下、日本の教科書からの引用の場合は(日本の教科書)と書きます。


 つまりは、自分たちで鎮圧できないので清に出兵を求めた。それに対して日本も申し合わせ(註;1885年に締結された天津条約)を口実に出兵した。その結果、日清戦争が勃発した、と。

 さらに調べてみると、
『天津条約により清は日本側にこれ(朝鮮政府による清に対する派兵の要求)を通知。日本側は、朝鮮政府からの派兵要請を受けていないにもかかわらず公使館と在留邦人の保護を名目に出兵。これにより両軍は朝鮮半島で対峙することとなる』
(以上、Wikipediaより)。



さて、いったいどちらが本当なのでしょうか?

 私には韓国の教科書は『自国の都合の悪い部分(動乱を鎮圧できる兵力がなく、清に出兵を要請した)』を隠し、意図的に日本を悪者に仕立て上げようとしているように読めます。


それが次の文章。


>このような状況で、日本は朝鮮での内乱を予防するためには朝鮮の内政改革が必要であると主張した。しかし、その内面的な意図は、日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、すすんで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった。



『日本は朝鮮での内乱を予防するためには朝鮮の内政改革が必要であると主張した』

・・・これは金玉均らによるクーデターの事を指しているのでしょうか?
そして、

『その内面的な意図は』

とし、

『日本軍の朝鮮駐屯の名分を見つけ、すすんで清との戦争の口実を作り、清の勢力を朝鮮から追い出した後、朝鮮に対する内政干渉をとおして経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった。』

『経済的利権を奪取するとともに、侵略の基盤を固めることであった』と、ハッキリと断言しています。その根拠も示さずに、ただ一方的に断言しています。
さらに後半になると、


>甲申政変の主動者として亡命していた朴泳孝と徐光範が帰国して改革に参与した。


この二人、実は親日派で、日本に亡命したりしていたんですよね。それも隠している。そして、



>第2次改革は軍国機務処が廃止され、金弘集・朴泳孝連立内閣が成立することによって推進された。高宗は文武百官を従えて宗廟に出かけ独立誓告文を捧げ、洪範14条を頒布した。

 独立誓告文は国王が国の自主独立を宣布した一種の独立宣言文であり、洪範14条は自主権、行政、財政、教育、官吏任用、民権保障の内容を規定した国政改革の基本綱領であった。第2次改革は、当時日本が三国干渉のために勢力が弱まっている過程であったので、事実上朝鮮の内閣大臣、とくに内務大臣朴泳孝の主導で断行された。



 高宗とは、
『李氏朝鮮第26代国王、大韓帝国初代皇帝(在位:1863年12月12日 - 1907年7月20日、皇帝在位:1897年10月12日 - 1907年7月20日)』
(Wikipediaより)
 
 つまりこれは『大韓帝国』としての独立宣言です。何処からの独立か?もちろん『清』からの独立です。
 そしてその『独立宣言』の元になったのが、1895年4月17日に締結された『下関条約』で、日本側全権大使は、伊藤博文と陸奥宗光、清国側全権大使は李鴻章。

 歴史的な出来事であり、当然日本の教科書には書かれてあります。


>1895(明治28)年、日清両国は下関条約を結び、清は朝鮮の独立を認めるとともに、日本政府の財政収入の3倍に当たる賠償金3億円(2億両)あまりを支払い、遼東半島や台湾などを日本にゆずり渡した。
(日本の教科書)



 参考までに、以下に『下関条約』の主な内容を列記します。

(引用開始)
第一条 清国は、朝鮮国が完全無欠なる独立自主の国であることを確認し、独立自主を損害するような朝鮮国から清国に対する貢・献上・典礼等は永遠に廃止する。
第二条 清国は、左記の土地の主権並びに該地方にある城塁、兵器製造所及び官有物を永遠に日本に割与する。
第三条 清国は、遼東半島、台湾、澎湖諸島を日本に割譲する。
第四条 清国は、賠償金2億両(約3億円)を日本に支払う。
第五条 清国は、沙市、重慶、蘇州、杭州を日本に開放する。
第六条 清国は、日本に最恵国待遇を認める。

開港開市の規定などについては、英仏などの欧米列強は既に最恵国待遇を得ていたので、日本も同じく恩恵に与ることが出来た。

なお、賠償金はその後の三国干渉による遼東半島の代償の3000万両(4500万円)を含めて3年分割でイギリス・ポンド金貨にて支払われた。日本はこれを財源として長年の悲願であった金本位制への復帰を遂げた。
 (Wikipediaより)



 第1条に、ハッキリと清からの朝鮮国独立の事が書かれています。
したがって、この条約がなかったら大韓帝国の独立は清からも、そして諸外国からも認められるものではありません。
 だが、その事には一切触れないで、


>第2次改革は軍国機務処が廃止され、金弘集・朴泳孝連立内閣が成立することによって推進された。高宗は文武百官を従えて宗廟に出かけ独立誓告文を捧げ、洪範14条を頒布した

 
 とは、これ如何に?否、それどころか、


>独立誓告文は国王が国の自主独立を宣布した一種の独立宣言文であり、洪範14条は自主権、行政、財政、教育、官吏任用、民権保障の内容を規定した国政改革の基本綱領であった。第2次改革は、当時日本が三国干渉のために勢力が弱まっている過程であったので、事実上朝鮮の内閣大臣、とくに内務大臣朴泳孝の主導で断行された。


呆れて物も言えません。


『第2次改革は、当時日本が三国干渉のために勢力が弱まっている過程であったので、事実上朝鮮の内閣大臣、とくに内務大臣朴泳孝の主導で断行された』


 韓国(当時は朝鮮か)万歳!ウリナラマンセー!!
 すべて我々朝鮮人が単独で行ったこと。日本は関係ない!
 これを歴史の捏造・歪曲と言わずして何というか??



>朴泳孝が失脚した後、穏健改革派と親露派の連立内閣である第3次金弘集内閣が成立した。このとき、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとし、このために日本侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした(1895年)。



 ほほう、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとしたんですか。その挙げ句に日本の侵略者たちは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こしたと。

 そりゃ日本が悪い!朝鮮の事を考えてロシアに近づき、日本の侵略勢力を排除しようとした朝鮮思いの明成皇后を、日本の侵略者たちは殺害してしまったのか!日本という国は、日本人は本当に悪いヤツラだ!!
 ・・・と、これを読んだ、または習った子どもたちは思うはずです。だが、実際はどうだったか??


 日本の教科書には、この部分の記述はありません。
 ということで、Wikipediaを参考にしてみます。


(引用開始)
閔妃暗殺事件(乙未事変)

これらの動きは閔妃に不満を持つ大院君や開化派勢力、日本などの諸外国に警戒され、1895年10月8日大院君を担ぎ出そうとした勢力により景福宮にて暗殺され、遺体も焼却された(乙未事変、俗に「閔妃暗殺事件」とも)。

朝鮮が親露に傾くことに危機感を持った公使・三浦梧楼が暗殺を首謀したという嫌疑がかけられた。外交官が王族を殺害することに関与するという行為に、日本は国際的な非難を恐れ三浦を含む容疑者を召還し、裁判を行った。しかし、首謀と殺害に関して[6]証拠不十分で免訴、釈放された。)[7]  また、後に与謝野晶子の夫となる与謝野鉄幹も加わっていたとされたが、当日の木浦で釣りをしているアリバイがあり広島地裁検事局は免訴とした。

なお、朝鮮政府はこれとは別に李周会(自首)、朴銃、尹錫禹3人とその家族を三浦らの公判中の同年10月19日に犯人およびその家族として処刑としている。

閔妃は、微妙なバランス感覚による外交政策を得意にしていたとも言われるが、具体的には大院君への怨念ともいえる確執の政治姿勢で貫かれていた。これらの政策が逆に仇となり大院君に代表される反対派勢力による暗殺を呼び込むことになった。閔妃暗殺後、日本は朝鮮の保護国化政策を進めていくようになる。

実際の暗殺の真の首謀者、実行者は誰であったかについては、日韓外交資料、梅泉野録、アジア歴史資料センターによる公文書、ロシア参謀本部中佐の「朝鮮旅行記」による記述の検討がなされているが、真相はいまだに明確[8]ではない。 首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な計画でないことは判明している。加えて 殺害の実行犯に関しても様々な説はあるが、アジア歴史資料センターの往電第31号によると、殺害現場にいた純宗の言で『乙未事件ニ際シ、現ニ朕ガ目撃セシ国母ノ仇、禹範善』となっているだけでなく、『禹ハ旧年王妃ヲ弑セシハ自己ナリトノ意ヲ漏セリ』と自ら犯人であることを漏らしている。この禹範善は(アジア歴史資料センター『在本邦韓国亡命者禹範善同国人高永根魯允明等ニ於テ殺害一件』)、純宗が放った刺客、魯允明と尹孝定によって暗殺されていた。[9] さらに閔妃暗殺の現場にいたと考えられる高宗は、露館播遷後、ロシア公使館から閔妃暗殺事件の容疑で特赦になった趙義淵(当時軍部大臣) 禹範善(訓練隊第二大隊長) 李斗○(王偏に黄)(訓練隊第一大隊長[10]) 李軫鎬(親衛第二大隊長) 李範来(訓錬隊副隊長[11]) 権○(さんずいに榮)△鎮(当時警務使)の6名の処刑を勅命で命じている。[12]従って、これで朝鮮人で閔妃暗殺事件で関連した全員が処刑、暗殺等で死亡または処刑命令を受けたこととなった。
[編集]

死後

なお、閔妃はその死後、大院君によって王族としての称号を剥奪され、平民に降格された(高宗実録 巻33[13] ) 。大韓帝国成立後の1897年、井上馨ら日本側からの働きかけによって明成皇后の諡号を贈られた。

従って、当初は東九陵の崇陵でなく崇陵前に埋葬された。明成皇后の名をおくられてからは清涼里の洪陵に移され、さらには高宗没後は南楊州市の金谷銅に位置する洪陵に高宗と彼女の合葬陵として現在の洪陵[14]に移された。
(引用終わり)



イロイロな資料・意見を見てみましたが、どれも確かな事は言えないようです。
確かに当時の状況を見れば、日本が親露派の明成皇后を暗殺により排除した、という見方が出来るのですが、ただそれでけでは説明できないような複雑な状況があったようです。
 何しろその一方で、実行者・首謀者ともに朝鮮人、という説もあるのですから。


Wikipediaでは、

>首謀に関しては、国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」によれば、当時の日本政府による計画的な計画でないことは判明している。

 と、『国立国会図書館憲政資料室 憲政史編纂会収集文書の整理番号 546 「朝鮮王妃事件関係資料」』を以ってハッキリと断定しています。
 ただ同文書の引用なり写真なりが示されていない以上、その資料を見るしかなさそうです。



ただ少なくとも、日本においては今もなお調査・考察されている事柄なのですが、にもかかわらず韓国の歴史教科書では、

>このとき、明成皇后は親露派と連結して日本の侵略勢力を排除しようとし、このために日本侵略者らは明成皇后を弑殺する乙未事変を起こした(1895年)。

 とハッキリと断言しています。
 これだけ微妙な問題をこんなにハッキリと断言している以上、韓国政府の意図は明白です。



 さて、最後の方で出てくる『断髪令』。日本では聞きましたが、朝鮮でも行われていたとは寡聞にして知らず。調べてみました。


(引用開始)
断髪令について、当時の朝鮮人たちが感じた行動は
日韓併合の真実/韓国史家の証言 崔基鎬著(ビジネス社)に詳しいようです。
以下引用↓


(180ページ)
とくに両班たちは、なかでも断髪令が
生活規範として尊んできた儒教の教えに背くものとして、いっせいに反発した。

両班たちは長髪を束ねて、髷にして結っていたが、
これは「身体髪膚これを父母に受く。あえて毀傷せざるは孝の始まりなり」
という孔子の教えによるもので、身体を傷つけることはもちろん、髪を切ることも、不孝とされていた。

高宗は手本を示すために、断髪をして洋服を着るように、
はじめは何回も要請されても、頑として聞き入れなかったが、ついに断髪を実践した。

そのかたわら、官僚が鋏(はさみ)を手にして
往来に出て、通行人の髪を切ることが行われた。
このために、儒生たちの反感を、いっそう煽った。

もちろん、この儒教の身体を傷つけてはならないという教えは、両班だけに適用されたものだった。
したがって、日韓併合の時まで、李氏朝鮮では、
中国と同じように、宮廷に宦官が存在したが、気の毒な宦官たちは、
親から受けた髪でさえ切ってはならないという、儒教の教えの恩恵にあずかることはなかった。
宦官は貧しい両班の子弟も、なったものだった。

韓国語で「断髪」と「断頭」が同じ発音であることも、断髪を恐れさせた。

両班から、賤民まで、階級にかかわらず、
断髪から逃れるために、都会の自宅を離れて、
辺鄙な地方へ逃げ込んで、山中や、谷間に小屋を建てて、隠れて暮らした。

当時の代表的な儒学者だった崔益鉉が、
「私の髪を切るのだったら、まず首を斬れ」といったことが、全国に広く伝えられた。
なかには、髪を切ったことを恥じて、自殺したものもあった。

日本と韓国の儒教がまったく異なっていることが、
金弘集による近代化を試みる改革を、きわめて困難というか、不可能に近いものとした。

(201ページ)
しかし、とくに断髪令と陽暦の使用に反発していた儒者たちは、
この改革が日本によるものとしてみなしていたから、日本が主導したか、
手を貸して、閔妃を殺害したことに憤激した。

頑迷な儒者たちは、
かねてから改革派を親日派(チニルパ)として罵倒していた。

儒教を信奉する両班たちにとって、驚天動地の事態が起こっていた。
王命によって長い歴史を持つ髷を切り捨てて、
管理が韓服にかわって洋服を着なければならないという、衣冠制度を変える措置が発令された。

もっとも髷は不衛生で、異臭を発していた。

そのうえ、まるで雪上加霜のように、
中国の暦に代えて陽暦を使用することが命じられ、
種痘法が施行され、郵便制度なども、改められた。

これは頭の天辺から爪先まで、形式的にも、
精神的にも、それまでの生き方を180度変えることを命じたものだった。
儒者たちにとっては、天変地異のようなものだった。
【韓国での断髪令と、乙未改革への反発1895年より】
 http://toron.pepper.jp/jp/20cf/nisshinro/danpatsu.html
(引用終わり)


 なるほど・・・韓国における『文明開化』だったんですね。
 ただこれが日本と決定的に違う点は、日本では日本人の手によって文明開化が行われたのに対して、韓国(朝鮮)では、外国人である日本人の圧力?で文明開化が行われた、という点。
 一応韓国の教科書でもこの改革は評価されているようです。『改革の内容と意味』を参照してみます。


>甲午改革と乙未改革をとおして政治・経済・社会の各分野にわたる近代的改革がなされた。

>政治面では、開国年号を使用し、王室と政府の事務を分離し、政治の実権を相当部分内閣が持つことによって、国王の専制権を制限した。また、科挙制度を廃止し、身分の区別なく人材を登用する新しい官吏任用制度を実施した。そして司法権を行政権から分離し、逮捕と拘禁、裁判の業務は警察官と司法官だけが担当するようにした。一方、地方官の権限を大幅に縮小し、司法権と軍事権を除外し、行政権だけを行使するようにした。

>経済面では、財政に関するすべての事務を度支部にまかせ財政を一元化し、王室と政府の財政を分離し国家財政を整備することに力点をおいた。また、銀本位貨幣制度の採択、租税の金納制の施行、度量衡の改訂、統一などを行なった。

>社会面では、身分制を撤廃し両班と平民の階級を打破し、公私の奴碑制度を廃止して、人身売買行為を禁止した。また、早婚禁止、寡婦再婚許容、拷問と連座法の廃止などを実施し封建的な弊習を打破した。

>軍事面での改革はなおざりだったが、これは日本が朝鮮の軍事力強化や軍制改革をいやがったためであった。改革過程で訓練隊の創設、拡充と士官養成所の設置などが一時試導されたが、大きな成果を収められなかった。

>甲午・乙未改革は概して日本帝国主義の勢力によって強要された面もあったが、封建的な伝統秩序を打破する近代的改革だったことには間違いない。さらに、朝鮮の開化人士と東学農民層の改革意志が反映された民族の内部から生じた近代化の努力でもあった(3)。 


 一応『甲午・乙未改革は概して日本帝国主義の勢力によって強要された面もあったが、封建的な伝統秩序を打破する近代的改革だったことには間違いない』と日本帝国の評価はしていますが、その後で、すかさず『朝鮮の開化人士と東学農民層の改革意志が反映された民族の内部から生じた近代化の努力でもあった』と、自国民による改革でもあった、とフォローしています。
 
さらに註(3)として、

>(3) 甲午改革、乙未改革は日本の強要によって着手され、この結果も日本の朝鮮侵略を容易にする体制改編にすぎなかったという改革の他律性のために否定的に評価されることもある。
>しかし、日本の改革強要がある以前に、すでに甲申政変や東学農民運動によって改革運動が起こっており、甲午改革、乙未改革が事実上朝鮮の開化派官僚によって推進され、改革の結果も近代化過程において非常に垂要な政治的、経済的、社会的な一大改革であった点で、制限的ではあるがその改革の自律性が認定され、改革の方向が肯定的に評価されている。


 と、あくまで『日本の改革強要よりも自国民による改革なんだ!』と強く主張しています。


 ところで肝腎の断髪令は、『改革の内容と意味』では取り上げられていません。断髪令も、まぎれも無く改革の目玉の一つなのですが、意識して取り上げられていないようです。
 つまりこれらの改革の陽の当たる部分・良い部分は『朝鮮人が積極的に行ったもの』であり、陰の部分である『断髪令』は日本帝国が強引に、強制的に行ったものである、という姿勢です。


 では断髪令はどこで取り上げられているのか?それは前の『甲午改革と乙未改革』と、次章『4 独立協会活動と大韓帝国』の『5 抗日義兵戦争の展開~抗日義兵運動の開始』の中で、極めて否定的に取り上げられているのです。


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